今の大手の風俗店と江戸時代くらいの性風俗事情を少し比較をしてみました

2015-12-21

江戸時代にもゲイバー的なものがあり、それは陰間茶屋と呼ばれていました。陰間とは男性相手に売春を行う男性のことを指す言葉ではなく、歌舞伎でまだ舞台に立つことがない修行中の女形をそのように呼んでいました。陰子とも言われていたようです。

女形として修行するときには女性としての気持ちを理解するために、男性と性的な関係を持つということはよくあることでした。ただし性風俗店とも言える陰間茶屋にはそのような「本物の陰間」が多く在籍しているわけではありません。始めのうちは芝居小屋と隣合わせに建っていたものでしたから、当時は陰子がお相手をしていたでしょう。

しかし段々と商業的に拡散してゆくにつれ、芝居小屋と隣合わせにたっている陰間茶屋を除き、女装もしていないようなごく普通の男娼ばかりになっていったのです。利用者は女性と交わることが禁じられていた僧侶などを始めとし、武家や商人でした。女性の場合には商家の未亡人や御殿御女中。

どちらも裕福な人々に限られていたわけですが、ピンキリの娼婦に比べて男娼は一様に料金が高かったということがその原因でしょう。今のお金に換算すれば2時間で2万5千円から、丸一日ともなれば30万ほどは掛かっていました。娼婦であればもっと料金的に安い遊びから、お大臣のように遊ぶなど選択肢があります。

陰間茶屋のお遊びは、とても一般生活者が手を出せるお遊びではなかったのです。だからこそ、江戸では「粋な遊び」として流行しました。「粋」を追求するならば、男色もたしなむべしといった感じであったのです。平賀源内が風俗案内本とも言える「男色評判記・男色品定」や「江戸男色細身・菊の園」を発行しています。

それだけニーズも高かったということでしょう。陰間に対しての揶揄や差別がなかったとは言えませんが、男色はコソコソと行わなければならないというものではありませんでした。同性同士の交わりを嫌うような傾向は、ある種、キリスト教文化が流入してからなのかもしれません。

今でも思想的に自由なインテリジェンスやアーティスティックな人々は、男色に対して少なくとも否定しない傾向にあります。陰間茶屋は江戸においての呼び名で、髪型では若衆茶屋などと呼ばれていました。江戸では上方から来た陰間の方が物腰も柔らかく、品があるということで重宝され、ランクも高かったようです。

しかし天保の改革は風俗に対して幅広く取り締まりを行いましたので、この陰間茶屋についてもその対象となりました。天保13年には全面禁止となりました。

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